PARADIGM SHIFT ~cenjue innna, cenjue ciel~

てんえんのふたつぼし
天淵の双つ星

作:kairi イラスト:うやま

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 ある日、魔法使いの少女が住む家から青い鳥が逃げ出した
 少女が鳥籠の中で大切にしていた、とてもかわいらしい幸せの青い鳥
 少女は識っていた
 鳥はとてもかよわく、屋根がなくては雨風に打たれ
 自分の庇護なくては食料もまともに調達できずに、獣にも襲われてしまうと
 そんな青い鳥のことが不憫で、憐れで、かわいそうで
 少女は青い鳥の幸せを取り戻すべく、鳥籠を抱えて家を飛び出した

 青い鳥が逃げた先には森があった
 美しく伸びる枝葉は、まるで肌を焼く太陽から私を護ってくれているよう
 でも今は、私の目から鳥の行く先を眩ませる障害物でしかない
 邪魔なので、少女は魔法で森を焼き払った

 青い鳥を追い続けた先には川があった
 きらめく水面は、まるで日の光を浴びて踊る天然の万華鏡
 でも今は、私の駆ける足を止める冷水でしかない
 邪魔なので、少女は魔法で川を干上がらせた

 ふと空を見ると茶色の小鳥が飛んでいた
 はためかせる両翼が、風を切りながら遠くの空を目指す
 でも今は、青色を探す私の気を散らせる畜生でしかない
 邪魔なので、少女は魔法で小鳥を撃ち落とした

 駆けた先には街があった
 賑わう市井が、世界は優しく温かいものであることを教えてくれる
 でも今は、物珍しさから青い鳥を付け狙う俗悪の溜まりでしかない
 邪魔なので、少女は魔法で街を吹き消した

 やがて少女は青い鳥を見つけた
 行きずりの少年から豆をもらい、青い鳥は頬をいっぱいに丸くしていた
 でも今は、もしかしたらその豆には毒が入っているかも知れないから
 念のため、少女は魔法で少年を八つ裂きにした

 ようやく鳥が鳥籠に戻ってきた
 少女は嬉々として平らに均してきた道を引き返す
 お前は私と一緒にいるのが絶対シアワセに決まっているんだからね?と
 安心した、とても朗らかな笑顔で少女は青い鳥に語りかけていた

 その家には、魔法使いの少女と一羽の青い鳥が住む
 鳥籠の中の青い鳥は、今日も絶対に幸せだった

 固い鱗の肌を持つ女の子
 村中から気味悪がられている女の子
 その肌のせいで、どれだけの悲しみを背負ってきたか
 少女はいつも一人で泣いていた

 そんな少女を慰めてくれる子がいた
 それは蛇の肌を持つ男の子
 その男の子はいつも凛としていた
「きっと悪いことばかりじゃないよ」と

 ある日、村に悪いオオカミがやってきた
 藁の家、枝の家、でもその村にはレンガの家はない
 蛇の肌の男の子が呟いた「レンガくらい固いものがあれば…」
 少女は、自分の肌がレンガよりも固いことを知っていた

 少女はオオカミの前に躍り出る
 大きく開かれた顎が少女の腕に噛み付いた
 するとオオカミの歯は脆くも砕け落ち、驚いたオオカミは尻尾を巻いて逃げていった
 蛇の肌の男の子が目を輝かせて喜んだ時、少女は初めて自身の肌を喜んだ

 私の肌は何物にも貫けない
 生まれ持ったこの醜い鱗で、私は私の大切なものを護っていこう
 少女がどんな脅威にも怯まず立ち向かい続けた時
 少女の鱗は星のように美しい輝きを放ったという

「お世話様ー」

「はーい、またどうぞー!」

 カランカラン。
 来客と退店を告げる鐘が扉の天辺あたりを揺れる。
 その足音が遠ざかれば、もう周囲に人の気配はない。
 彼女は男の退店を見届けた後、眼下に屈む俺をひょいと見つめて、いつもと変わらない快活な笑顔を浮かべた。

「もう出てきて大丈夫だよ、ゼンくん」

「すまない、面倒をかけて」

 カウンターから顔だけを出して慎重に周囲を検める。
 人の姿はない。見ている者もいない。
 もう屈むのをやめても問題ないことを念入りに確認してから、俺は、ようやく縮こめていた背中を伸ばした。

「……ふぅ。匿ってもらって、本当に頭が上がらない。すまない」

「やめてよぉ。ゼンくんはお客さんだよ? お金だってちゃんともらってるし。このくらいなんてことないって!」

「だが、俺を探してるのは他でもない大鐘堂だ。そんじょそこらのチンピラじゃない。そんなお尋ね者が店に来たとあっちゃ、君も商売あがったりだろ」

「だから、ゼンくんくらいなんてことなんだってば! もっとワケありのお客さんなんていーっぱいいるんだよ? それに、私は武器屋だけど大鐘堂の人間じゃないし。贔屓にしてくれてるのは感謝してるけどさ、それ以上の気持ちはないよ」

 彼女――大鐘堂お抱えの武器工房「鶴屋」の店主である少女は、そう言いながら無邪気な顔で笑った。
 その立ち居振る舞いを見るに、彼女は本当に俺の立場を気にも留めていない。
 装いこそ職人のそれではあるが、その見てくれは俺よりもずっと若い。加えておしゃべりで、人懐っこく、笑顔が絶えない。武器屋というよりも、花屋の看板娘が似合うような、そんな大らかさが彼女にはあった。
 そんな可憐な少女が、なぜ武具の製造に携わっているのかはわからない。
 ただ確かだったのは、この街に、彼女以上の仕事をこなせる人物はいないということだった。

「はい、頼まれてた品。ピッカピカに磨いておいたよ。それとちょっとカスタムもしておいた。外装には出てないけどね」

「……相変わらず、凄い加工技術だな。どうやったらこんな鏡面仕上げにできるのか、叶うならゆっくり教えて欲しいところだった」

 しばらく預けていた相棒を手に取り、グリップを握って持ち上げる。
 重さも、重心の位置も変わらない。本来ならもっと戦術的加工を施すべき部分も、俺がこいつを握った時と同じ、ほとんどが手付かずのノーマル仕様のまま。無骨で、無味で、ただ銃身だけは鏡のように美しく磨き上げられている。
 店主はカスタムを施したと言った。外部には出ていないとすると、お得意の内部機構の方か。
 今、店主に内容を聞いてしまってもよかった。だが、せっかくなら自分でバラしてカスタム箇所を見つけてみるのも乙だと思った俺は、その疑問を飲み込んでおくことにした。

「でも、教えたら来なくなっちゃうじゃん。またピカピカにしてほしいなら、ちゃんとお店に来ないとね!」

「商売が上手いな。でも、実際、こいつの機嫌をとるのは君が一番上手いらしい。悔しい話だけどな」

「なにそれ、銃がカノジョだって言ってるみたい! で、どう? 感じは変わってない?」

「ああ、全くいつも通りだ。本当に、よくもまあ変わらないな、こいつは。もう握り始めてから十年ちょっとは経ったと思うんだが」

 俺の言葉に、店主はふふんと鼻を鳴らす。

「武器は愛だよ愛。愛を持ってメンテをすれば、どんな武器も使い続けられるよ。ほんとはもっと先進的なモノを作ってみたかったりするんだけど、それはいつも出来てるからいいんだ! っと、そうだ、先進的と言えば」

 はっ、と顔色を変えて、店主は何かを思い出したような顔をして店の裏手に消えていった。
 それを見ながら、俺も「ああ」と口を開く。
 そうだ。そもそも、それを依頼したのは他でもない俺自身じゃないか。
 騎士隊を飛び出してくる直前に引き落としておいた資金のほとんどを叩いて、俺は"ある品"の依頼を鶴屋の店主に持ちかけていた。
 今日の目当てはそれの入手。市街の真ん中まで入ってくるリスクを犯してでも、俺はそれを手に入れる必要があった。
 俺は少しの高揚を胸に秘め、相棒のガバメントを腿のホルスターに仕舞う。
 ややあって、店主と、そしてその手に握られた、人の丈ほどもあるジュラルミンケースが姿を現した。
 ドン。置かれたカウンターのスペースのほとんどを占有したそれは、見るからに重そうで、そして大きい。

「はい、よっ……と! 目立つから、布をかぶせて背負えるようにしといたよ。これなら行楽だーって言っとけば大丈夫でしょ、騎士隊に見つかっても!」

「いや、見つかる気はさらさらないが。とにかく助かった。いい仕事をありがとう」

 その見たとおりの鈍重さをしたジュラルミンケースを背負い、俺は店の出入り口に向けて踵を返す。

「えっ、中身、確認してかないの?」

 意外そうな声を上げて呼び止めた店主に対し、俺は肩越しに小さく振り返る。

「君の仕事を信用している。それに、今ここで開けてしまったら、組み立てて、構えて、日が暮れてしまうからな」

「ふふっ。ゼンくん、ほんとに銃が好きだからね。わかった。もしなんか不具合とかあったら持ってきて。ま、なーんにもないと思うけどね!」

「何もないさ。それじゃ、またよろしく」

「あっ、ちょっと! そういえばこれも!」

 言葉と共に、店主が何某かを渡しに小走りに駆けてくる。
 その手に握られていたものを見て、額に冷や汗が一筋伝った。

「……気がついてくれて助かった。これは、忘れたら怖かったな……」

 店主から包みを受け取り、懐に仕舞う。
 俺は命拾いをした心持ちで、店主に気づかれないように小さく息をついた。

「大事なものなんでしょ、それ。すごく年季が入ってるから、歯車の交換ひとつにしても大変だったよ。でさぁ、なにー、カノジョのだったりするー?」

「それは……あんまり想像したくないな。それに、俺にはもう……そう、こいつがいるからな」

「銃? ……はあぁ、苦労するよーゼンくんは! 騎士ってのはみんなこうなのかなぁ。だとしたら大変だろうなー、ゼンくんを好きになったひとは」

 肩をぽんぽんと叩かれてから、腰をバシンと強く打たれて、その勢いで俺は出入り口の方へとつんのめる。

「まー上手くやりなよ! 言っとくけど、女の子を泣かせたらダメなんだからね! そんなことしたら次から割増料金だからね!」

「何を言ってるんだ」

「騎士を辞めた人間が、わざわざ大金はたいてそんなの買う理由なんてひとつしかないでしょ! はいはい行った行った! 毎度ありー、また来てね!」

 半ば追い出されるような形で店を後にした俺は、放り出された白日の街から隠れるように、急ぎ薄暗い裏路地へと溶け込んでゆく。
 店主の言葉と鐘の音が混ざり合う頭の中、思い浮かべていたのは、蒼白の表情で悲しげに笑う、白い少女の姿だった。

 *

 その昇降機はひどく錆びていたが、それでも人知れず稼働を続けていた。
 握った銃を閉まりゆく扉に向けて構える。
 尾行はないか。扉の閉まる最後の瞬間までそれを確認し、やがて何事もなくその隙間が塞がったことを見届けて、俺はようやく溜めこんでいた息をついた。
 銃をホルスターに仕舞い、背負っていたジュラルミンケースを床に下ろす。ドン、と鈍い音がした。

「二日ぶり、か。それでも、なんだかずいぶん久しい気もするな」

 最初にそれを提案したのは俺だった。
 最近のスラムは不気味だった。不和を発端にした暴走が起こるわけでもなく、騎士隊の襲来もない。
 むしろその逆だった。あまりにも平和すぎたのだ。
 俺たちは大鐘堂のお尋ね者のはずだった。御子様の助け舟があったとは言え、国家が推し進める計画と、その計画の中枢に位置する人物、勢力に反旗を翻した。
 銃口まで向けあって、殺るか殺られるかの所までやりあった。この首に懸賞金が賭けられてもおかしくない。それくらいのことをした。
 だが、連中は追ってこなかった。本気を出せばスラムの一区画くらい焼き野原にできようものを、奴らはしなかった。
 そうする理由は何であるのか。それが俺にはわからなかった。
 意図がわからないということは、相手の出方を探ることもまた、ままならないということ。
 動機の知れない行動を予測することはできない。俺の一番の恐怖は、その「なぜ」をそのままにしておくことだった。

「少し大鐘堂の様子を見てくる」

 市井の観察に出向くことを決めた前日の夜、俺の提案をイオンは二つ返事で了承した。

「いいよ。あの子たちは私が見てる。連中の動きがイヤに静かなのも、正直気がかりだった」

「でも、その行動にはリスクがつきまとうわ。アンタ、バレたらどうすんの? 街でドンパチやる気?」

「リリ、君が言っていることも一理ある。だが、だからといって放置し続けていい懸念じゃない。それは君もわかっているはず」

「私が言ってんのはそうじゃない。……癪だけど、アンタはもう、このスラムにとっての大きな盾のひとつになってる。スラムだけじゃない、アンタはアンタで守るべきモノが、守りたいモノがあるんでしょ。それを放っておいていいのかってこと」

 リリの反駁は想定していたが、出てきた言葉の色合いは想定外と言えば想定外だった。

「リリはアデルが心配なのよ」

「ちがっ……誰がそんなこと!」

「でも、リリの言ってることもわかるよね、ゼン。あんたが調査に出てる間、アデルはあんたの庇護を失う。物理的にね。それがどういう意味かも、わかってるんだよね」

「ああ、わかってる。だから……イオン、リリ。その間のことは君たちに任せる」

 心は決まっていた。
 二人のことは信用していた。レーヴァテイルとしても、そして同じスラムの年長者としても。
 イオンもリリも、アデルを護るに相応しい気力と気概を持っていた。だから迷いはなかった。

「子守りを押し付けられるだなんて、安く見られたもんね、私たちも」

「そんなこと言って。一番好きな仕事じゃん、リリの」

「~~っだーかーら! だーれがもうそこそこの歳した子どもたちの子守りなんか好き好んでやるってのよ! 手がかかってばっかで、休む暇もないんだから! もうっ」

「ほらね、オッケーだって」

「頼もしい限りだな」

「アンタらーーっ!!」

 斯くしてパスタリアシティに踏み込んだ俺は、そこそこの変装の下、住民や商店から情報を集めて回った。
 結果、見えてきたのは、どうやら上は上でゴタゴタしているらしい――ということだった。
 結論を言うと、"俺たちを捕まえるだけの戦力をスラムに回す余裕がない"。そういうことになるらしい。
 なんでも現在、大鐘堂の中でも不穏な動きが目立ち始めているという。
 大鐘堂の総統アルフマンと御子クローシェが、「神との戦争」というキーワードを軸に、極めて強気なプロパガンダを実行しているというのだ。
 きな臭いのは、そのプロパガンダの推進と時を同じくして、大鐘堂がI.P.D.発症者の"治療"に本腰を入れてきたとのこと。
 神との戦争。I.P.D.の保護と治療。
 この二つの点が線でどう繋がるのかはわからない。そもそも全く関係のない話題である可能性も十分にある。
 そういえば、イリヤ奪還の際、あの老いた狂人が何かを言っていたような気もする。
 戦争とI.P.D.――これら二つの間に関係性を見出すには、もっと時間が必要だと感じた。
 だが、そもそも、俺たちにとって重要なのはそこではないのだ。
 俺たちが注目すべきは、「そのゴタゴタのおかげで捜索の手を回せる状況にない」という事実がわかったということ。
 少なからず、この都市部の混乱が、今のスラムの、一縷と知れずとも確かに存在する、静かな時間の持続に寄与しているのだということが把握できた。
 裏を返せば、その混乱が落ち着くまでが"準備にかけられる時間"の上限だということも。
 これは最悪の予測にして、恐らく到来し得るだろう目測。
 遠くない未来、スラムは戦場と化す。
 それも簡単な戦いにはならない。血は流れ、人は死ぬだろう。
 大鐘堂の目的は、俺とアデルの始末か、もしくは先の憶測に絡めた、I.P.D.の一斉保護。
 そうなった時、俺はきっと人を殺すだろう。少なくとも、そういう覚悟で俺はこの場所に留まっている。
 だが、巻き込まれる者は違う。覚悟などなければ、予測もしていない。平和な時間が続くことを信じてやまず、降って湧いたように訪れる隣人の死を受け入れることも到底できないだろう。
 だが覚悟の有無にかかわらず、人は死に、状況は変わる。
 そして、その時、その人間がもし、自分たちと関わりの深い人物だったなら。
 それまで積み上げてきた関係も、築いてきた信頼も、全てリセットされる。
 他人を理解する余裕がなくなり、未来という時間が、すべて喪失への怒りと悲しみのためだけに消費されてしまう。
 そうなれば、ようやく開きかけた心の扉も、その外枠ごと簡単にひしゃげて潰れてしまう。
 そうなる前に、そうなってしまう前に。
 その心と心の間に、太くて強い、絆というワイヤーを走らせてやらなければならない。
 俺も、そしてイオンもリリも、案じていることはきっと同じだ。
 アデルとイリヤ。
 二人のダイブの時間は、いつまで許されるのか。いつ奪われてしまうのか。
 その機会の死守、維持、創造。
 それこそが、今の俺に全うできる、数少ない使命。
 俺は当事者ではない。
 だが、その当事者たちを、なんとかしてやりたいと願う者でもある。
 だから俺はここにいる。
 ――ガコン。
 思いを新たに、下降を終えた昇降機から、俺はその一歩を踏みだした。

「…………俺に、できること、か」

 目の前にはスラムの平穏な景色が広がっている。
 受動的にもたらされる時間。誰かの都合で簡単に崩れ去る幸福。
 俺たちを取り囲む大局が、俺たちの時間の大枠を決める。
 大局を動かすのは政治家の役目。
 なればミクロ、局所的な状況を操作することこそが、前線に立つ騎士の務め。
 結局、やることは変わらない。
 戦局を変えずとも、状況を変えることはできる。
 それは泥臭い時間稼ぎ。
 愚かで汗臭いそれだけが、俺が揮うことのできる、アデルのために使える力――。

「よぉ、そこの兄ちゃん。ちょいぃとばかり、道案内を頼まれてくれねぇかよぉ」

「え――?」

 *

 身体は疲れ切っていた。
 飲み込むことを受け入れない胃に、味のしない食べ物を詰め込んでは、咽る。
 それでも食べなくちゃいけない。
 私が倒れたら、代わりになれる人間はいない。

「リリ、お願いだから休んで」

「休んでるわ、十分」

「休んでないよ。夜も眠れてないでしょ。ご飯も喉を通ってない。これ以上細くなってどうすんのよ」

「余計なお世話よ」

 イオンの囀りが煩い。
 私は口の中の粘土を水で流し込んで、ここから出ていこうと立ち上がった。
 瞬間、視界がぐらぐらと回転する。

「ちょっ……! はぁ、言わんこっちゃない! こんな体でどうするつもりなのよ! やっぱり考え直さないとダメよ、仕事でセラピをしながらネルたちのダイブを助ける生活は無茶が過ぎる!」

 私はイオンに抱き留められていた。
 柔らかくて、眠ってしまいたい。
 そんな弱気な自分を心の中から追い出すように、私はその温もりを押し退けた。

「……無茶は承知でやってんのよ。セラピストでもないクセに知ったような口聞いて。じゃあ何、どっちかやめろって言うの。無理して二兎を追えるなら追えばいい。元からそれが自然だったじゃない、このスラムでは」

「……あのねぇ、私たちは歳を取ってんのよ、これでも。確かに昔のリリならできた。いいや、今のリリでもできる。でも、アンタの最近の疲れ方は普通じゃない。プロクシダイブが心身に負荷を与えてるのは明らかよ」

 プロクシダイブ。
 本来、レーヴァテイルとダイバーの一対一でするべきダイブに、もうひとりのレーヴァテイルが監視役として干渉するという、特殊なダイブのこと。
 このダイブは、監視役のレーヴァテイルの精神世界に、本来ダイブするレーヴァテイルとダイバーのペアをまとめてダイブさせることから始まる。
 自分の精神のコントロール下にペアを置くことで、そのペアのダイブ中に起こり得ると判断された重大なリスクを削減する。プロクシダイブは、そういうことのために使われるダイブだった。
 だが、その有用性の裏には、大きな代償が用意されていた。
 甚大な精神疲労と、失敗すれば最悪死に至るリスク。
 それらを、プロクシダイブの監督者は一身に被る。
 忘れてはいけないのは、死に至る"恐れがある"のではない。
 失敗すれば"死に至る"という前例がある、ということ。
 所詮は失敗しなければいい話だ。失敗しなければ死ぬことはない。
 そうやってプロクシダイブに手を出した奴は全員、胃の中と頭の中をからっぽにしてきた。
 プロクシダイブは、地獄のような修行を年単位で重ねてようやく修得できる特殊なスキル。それに本当のスタートは修得してからで、そこから"死なずに運用できる"ようになるまで更に数年。そこまでしてようやくプロクシダイブは実用を想定することができる。
 なぜ、そうまでしてでも覚える必要があるのか。
 理由はひとつ。金になるから。
 セラピストなんてみんな生活に困ってる。だから誰でも一度は覚えようとする。
 その結果、本当にモノにするのは一握りの強情だけ。私もその中の一人だった。
 そうして、プロクシダイブをモノにしたセラピストは漏れなく後悔するのだ。
 こんなに死ぬほどキツいなら、覚えない方がよかった、と。

「……それでも、プロクシをやれるのは、このあたりじゃ私だけしかいない」

「そうかもしんないけどさ。…………言うつもりなかったんだけど、もう言うよ。ダイブ屋の人から聞いてるの。プロクシは普通の子じゃ一回やったらしばらくはできない。精神への負担が大きすぎるからって」

「……あのお節介焼き……」

「それをリリは、この十日かそこらで何回? 六回よ? もう限界よ、このままじゃ本当に死んじゃう。だからもう、私はリリにプロクシダイブをやらせるわけにはいかないんだよ」

 イオンの気持ちはわかる。痛いほどに。
 けれど、私は首を縦に振っちゃいけない。

「じゃあ、ネルはどうなるの。前も言ったけど、レーヴァテイル同士のダイブ自体が危険な行為。原因不明のエラーは今までのダイブで確認してきた。それもかなりの数を」

「でもそれじゃあ、」

「これまでのは潰せるバグだったからいい。じゃあ潰せないバグが出たら? システムの中枢が止まったら? つられてハードまでダメになったら? ……死ぬのよ、あの子たちは」

「う……」

 そう。それで引き下がってくれればいい。
 誰がどう見てもこれが最善の手。私が無理すれば二人が助かる。ならばそれが一番。
 金のために覚えたプロクシダイブでも、こうして誰かのために活躍できたのなら本望だった。
 こんな泥まみれの人生でも、私は真っ直ぐ生きられたんだなって、そう思えるから。
 だから、私は。

「後のことはよろしく。それじゃ、ダイブ屋に――」

「ダメ」

 瞬間、私は歯噛みする。
 予想はしていたけど、辛かった。
 イオンの手は、こんなにも強くて、大きい。

「……離して」

「そういうところがダメだってことにいい加減気づいて。ネルはアンタのそういうところを見て育ったよ、間違いなく」

「適当なことを! ネルはアンタの背中ばっか追っかけてたじゃない! あの子は……あの子は、私の背中なんて、一度だって見てもいなかったわよ……」

「だからさ、そういうとこなんだって」

「ネルに見せる背中なんて私にはなかった! 逆よ、私がネルの背中ばかり見てた! ダイブ屋に入り浸って、疲れた顔して帰ってきて、振りまく愛想もなくて……そんな私のどこを見てたってのよ!」

「ネルはリリを見てた! ずっと見てたわよ。リリがそれを見ようとしなかっただけで、ネルはずっと、リリが見てくれることを待ってた」

「っ……」

「だからそういうもんだと思ったのよ、あの子は。辛くても、嬉しくても、目を逸らして、気持ちは隠しておくものなんだって。どっからどう見てもリリにそっくりじゃない、今のあの子」

「そんなこと、あるわけが…………」

 そっと、背中にイオンの感触が寄り添う。
 そのまま片手で抱き締めて、もう片手で頭を撫でて、私の頬に頬を重ねて。

「リリがいなくなって、ネルはどうするの」

「……だから、それはイオンが、なんとか……」

「じゃあ、アデルは?」

「……っ、……あの子は……」

 最初に見た時。
 あの子はスラムのどんなチビよりも小さく縮こまって、震えていた。
 臆病で小心者。自分の弱さを突飛な衣装とハッタリで誤魔化して、強気な自分を演出して。
 そんな彼女を、なんて矮小な人間なんだろうと思った。
 そして、なんて自分と似ているのだろうと思った。
 それでも、あの子には私と違う所がひとつだけあった。
 どんなに怖くても、どんなに辛くても、妹のためなら死地にも赴く。世界の全てさえ相手取る。
 その、細くても大きな背中が。
 私には、とても羨ましいものに見えたから。

「アデルには…………まだ、教えてないことが、あるかな」

「どんなこと?」

「……私のようになるなってこと」

「……ふっ、くっ、ふふふふ……」

「わっ、笑った!? もう、最低……」

 努めて抑えたのであろうそのくすくす声も、発生源が耳元すぐなら聞こえないはずもない。
 こみ上げる怒りともどかしさで躍起になってもがいた私を、けれどイオンはもう一度、きつく抱き直して。

「ごめんごめん。でも、勘違いもそこまでいくと笑えるなーと思って」

「勘違いってなによ」

「えー? だってさ、もう既にそっくりじゃん。リリとアデル」

「どこがよ!!」

「ひとつのことに必死なトコ。辛いのに辛いって言わないトコ。それと……ずっと、無言で誰かの背中を見つめてる、ってトコ?」

「何よそれ。意味わかんない。っていうか、ダイブ屋行くから離してよ、もう!」

 それを最後にイオンは私を解放する。
 そうして、私より前に踏み出して、その背中を私に見せつけて。

「じゃあ私も行く。きっとあの子らは言うよ。今まで見守ってくれてありがとう、これからは自分たちでなんとかするよ、って」

 ――見守る?
 私がしてきた、ただ背中を見つめるだけでしかないその行為は。
 もしかしたら、そんな名前をしていたのかも知れないと、思って少し、可笑しくなった。

 バタン!

「イオンおねえちゃん! リリおねえちゃん! ゼンおにいちゃん、帰ってきたんだけどぉっ!」

「だけど、だけど……!」

 *

「――何をしに、来たんですか」

「聞こえなかったかよぉ。案内を頼むっつってんだぁ」

「できれば、お引き取り願いたいんですが」

「てめぇよぉ。……どの口が何を言ってんのか、ちゃぁんとわかってんだろうなぁ」

 言い、その大男はゆったりと地を踏む。
 鎧と呼ぶのも憚られるその人型の鉄塊は、あるいは、かつてのそれよりも重厚さを増していて。

「やるんですか、俺と」

「俺は道案内を頼むっつったんだけどなぁ」

「それには応えられない」

「じゃあどうすんだ。俺をここから動かすか? 力ずくで」

 何故ここに? どうしてあなたが?
 それを問う暇はなかった。
 戦いは、既に始まっている。

「あなたの目的が見えない」

「弁えろよぉ。テメェの都合なんて聞いちゃいねぇ」

「この場所はもう騎士隊を必要としていない」

「この場所がそうでも、巣から飛んできた蜂が人を刺すこともあんだぁ。それを放っておけってかぁ?」

 会話に乗じ、背負っていたジュラルミンケースを地面に落とす。
 それはズドン、バタン、と大きな音を立てて倒れる。立ち上がる砂埃に大男は目を細めると、やがて値踏みをするような目で俺を見た。

「ひとりで戦争でもおっぱじめようってか」

「あなたにこれを使う必要はないです、先輩」

「はぁァ。俺も、甘く見られたもんだなぁ」

 俺は僅かに奥歯を噛む。
 細めた目は俺を見ていたのではない。
 その人は、ガトルは俺の手を見ていた。今にも腿のホルスターに手をかけようとしている、俺の右手を。
 見られた時点で、俺の後手は確定した。
 普通、五歩も空いていれば銃の間合いだ。
 だが、俺の目の前のその人に限って、その基本的な尺度は通用しない。
 その人が槍を構えてしまったら。姿勢を低く落としてしまったら。
 どれだけ距離が離れていようと、それはもう、その人の槍の突きの間合い。
 考えている間にも銃を抜けばいいと思うだろう。
 だが、それではもう間に合わない。

「……わかってんな? これは提案でも脅迫でもねぇ」

 グリップを持って、胸元まで引き上げて、安全装置を解除して、引鉄を引いて。
 その間に、俺の胴に穴が空く。
 何もできずに、俺の戦いは終わる。

「両手をあげて投降しろ。そんで神妙なツラしてお縄につけぇ」

 アデルの顔が脳裏に浮かぶ。
 あいつに何を残してやれた?
 何を感じさせて、何を考えさせてやれた?
 散々大見得を切ってきた。大それたこともやってきた。
 それでも死なずにここまで来れたのは、単に運がよかったからなのか?

「おい、早くしろ。……死にてぇのか、おい」

 そうではない。
 そうではないことを、ここで証明しなければならない。
 でなければ。
 俺に、あいつの盾たる資格はない――。

「……ふんぅ、ようやく諦めたか。おい、項垂れろって言ってんじゃねぇ、両手を上げろって言ってんだ」

 ガトルの言う通り、俺はがくんと肩を下ろして項垂れた姿勢から、少しずつ両腕を上げてゆく。
 みっともないが、最早、こうするより道はない。
 これだけは――この手だけは、打ちたくなかった。

 パァン!

「ちぃっ!?」

 キィン!
 俺の"左手の中"から放たれた銃弾がガトルの兜を掠める。
 それでいい、たったの一瞬意識を逸らせさえすれば、それで――!

「襟に仕込んでいやがったな!」

「デリンジャー! 臆病者の銃ですよッ!」

「てめぇ!」

 瞬間、ガトルの持つ、竜の骨ほど無骨にして長大な槍が俺の胴を目掛けて走った。
 だが、今をして得物を手に一矢を放とうとしているのは奴だけではない――!

「間に合うッ!」

「畜生がッッ!」

 ガン!
 グリップに指が触れて間もなく、ファストドロウにより放った弾丸が槍の正中僅かに内側を滑るように叩く。
 よもやガバメントごときの口径、ストッピングパワーで、対するその質量の塊を弾くことなど可能なはずもない。
 だが、それも"従来のそれ"であればの話。
 つまり、鶴屋のカスタムは伊達じゃないということ――!

「くぅっ!?」

 肩が抜けるほどの衝撃が全身を軋ませる。
 拳銃の実用限界、その60口径の弾丸は、当たれば鉄板さえ穿って大穴を空ける狂気の産物。
 射出すればたちまち射手の方が吹き飛ぶほどの威力を、この銃は完全にコントロールしている。おとぎ話の世界の銃を、実用に耐え得るレベルにまで昇華、実現せしめている。
 常識を逸脱した拳銃だ。そんな誰もが笑って捨てるような幻想さえ具現化する、そうさせる手腕こそが大鐘堂御用達の看板を背負う所以。

「それでも、止まらないと言うのか……ッ!」

 果たして60口径弾の直撃を受けた大槍は、当初の軌道を大きく逸しようとしていた。
 それでも、やはりそれは鉄塊であったのだ。
 その鉄塊を制する肉体が、精神が、たかが切っ先を弾かれた程度で動じようものだろうか。

「意気ぃぃッ!」

 叫びと共に生じた強力な引力が、一度は逸れた切っ先の軌道を内に内に戻してゆく。
 その先、掠めようとしていたのは、暗殺者の銃を擁した俺の左腕。

「ぐっ!?」

 実際、それは掠っただけだった。
 だとしても、俺の腕は刎ね飛ばされた像を鮮明に錯覚した。

「……っ!? くそっ!」

 視界の端で血飛沫が上がっていたのが見えた。
 抗い様のないショックが左腕の力を奪う。握り締めていたはずの小型銃は宙を舞っていた。
 こみ上げる死の恐怖。
 腕ひとつくらい安いものだと思っていた。あいつのために失うなら安いものだと。
 それが、今、左腕の感覚を失くしただけで。
 俺は、こんなにも怯えている――。

「ちっ……おらァ」

「ぐわっ!!」

 鉄球に打たれたような衝撃が腹から全身に駆け巡り、瞬間、俺は大きく後ろに吹き飛んだ。
 壁に打ちつけられ、呼吸ができない。
 霞がかかった意識の中、甲冑の地を食む音がぐわんぐわんと反響する。

「軽く蹴っただけで飛ぶ、紙みてぇな体だぜ」

「ぐ……がはっ」

「折角の得物も泣いてんなぁ。手前みてぇな貧相な男に握られてちゃぁよぉ」

 定まっては外れる目の焦点が、それでもその男の憐れみの眼差しを捉えていた。
 蟻か何かを見るような目。殺す価値もないと踏み潰すことをやめた、成熟した大人の目。
 この憐憫にあやかれば、俺は生き残れる。
 今の俺は騎士じゃない。敵わぬ強者に叩きつけるプライドも、自ら死にゆく蛮勇も、振りかざす理由はどこにもない。
 それでいいんじゃないか?
 こうなってまで戦う理由など、俺にはないんじゃないか?
 そう思っても。もうやめろと身体が叫んでいても。
 それでも立ち上がろうとする、この身体は一体何なんだ?

「……そうか、お前も……心と身体が食い違う、生まれついての馬鹿だったなぁ」

「お、おれ……俺、は……」

 あの時と同じだ。
 俺は、あの黒い蜥蜴を前にして、それでも飛び込んでいった。
 勝てないとわかっていた。死の恐怖に飲まれて泣きそうになった。
 なぜだ?
 なぜ、俺は自ら死地に飛び込んでゆく?
 何の得があろう。
 何の報いがあろう。
 そう、自問した時。
 遠くに見えるのだ。
 小さな、消えそうなほど小さな、白くて、薄い、誰かの背中が。

「俺は……」

 そいつを、追いかける。
 行くなと手を伸ばして、動かない足を引きずって。
 悔しいんだ。
 そいつは、いつまで孤独でいる?
 いつまで、誰の手も受け入れずに、その狭くて暗い場所で膝を抱え続けている?

「俺は……行かなきゃ、ならない……」

 迎えに行く?
 違う。
 俺は、あいつの視界を遮りたい。
 あいつが見ている、底の知れないこの世の闇を。
 黒く染まった希望のない世界を。
 たかが男の安い背中で、馬鹿馬鹿しいものにしてやりたい。

「俺は……お前を……」

「お前も、そうやって行っちまうのか」

「ああ……だって、俺は……」

 あいつのことが、大切だから。

「俺は、お前を止めるぜ」

 ガトルは槍を構える。よろよろと歩み進む俺に狙いをつける。
 その顔は変わらず憐れみに満ちていた。だから。

「壁は、ぶっ壊します」

「……笑止!」

 風切り音が、俺の頭を突き抜けた。

 *

「なにぃ……」

 ガトルの持つ槍が地面を転がる。
 遅れて、被っていた兜が宙を舞った。

「俺は確かに弱いです。立っ端はないし力もない」

 一文字に走った頬の傷から、つつ、と血が流れ出る。
 鎧に密着させた身体。
 そこから槍の柄を撃ち。兜の顎を撃ち。
 三発限りの大口径弾用マガジンをリリースし、間髪入れず違う形の弾倉を銃底に籠めて。

「でも、それは止まる理由にはならないから」

 ガトルの足に添えるように踏み込んだ俺の足。
 その二つの接点に向けて、それを撃つ。

「そんで、馬鹿に付き合わせようってか」

 べちゃ、と貼り付いた白い粘着物が、瞬きの間に鉄ほどの硬さに凝固する。
 馬鹿な俺と、そんな俺を止めに来た大馬鹿。
 二人の馬鹿が、今、特殊な弾薬によって大地に繋ぎ留められた。

「この距離なら、できることはひとつしかない」

「だが、それはお前には圧倒的に不利なことだぜ」

「だったら……なんだってんだッ!!」

 俺は右手を大きく振りかぶる。
 そして渾身の力を籠めて振り下ろした拳を、ガトルの横っ面に叩き付ける――!

「これならどうだッ!」

「……どうだもなにも、んな虫が止まったようなモンを喰らわされても――」

 瞬間、岩で殴られたような衝撃が顔面にめり込み、脳が揺さぶられる。
 飛びそうになった意識を奥歯で繋ぎ止め、再び拳に力を籠めて、前のめりに腕を振り下ろす。

「痩せっ、我慢をっ!!」

「――今度のはちっとは痛ぇな。だが所詮、痛ぇ止まりだ」

 二度迫り来る拳を動かない左手で受けようとして叶わず、正面からもろに鉄拳を喰らう。
 口が切れたか鼻が折れたかして戦意が萎みかけるも、俺の中の何かが止まることを許さない。

「先輩はいつもそうだッ! 身体がデカいのをいいことにッ、余裕なフリしてッ!」

 殴る。

「フリじゃねぇ。実際余裕なんだよ。なら小せぇ手前のその細腕で何ができるぅ」

 殴られる。

「あなたを殴れるッ! 殴って、倒してッ、俺は……前に進むッ!」

 殴る。

「進めねェ。お前じゃオレは乗り越えられねぇ」

 殴られる。

「進むッ! 乗り越えて、俺はその先に進むッ!」

 殴る。

「例えそれで、死んだとしても……ッ! 死ぬとわかっていてもッ!!」

 再び、殴る。
 ガトルの動きが止まる。
 そして、俺を、これまでで一番厳しい眼差しで睨みつけて。

「それだから、乗り越えられねぇっつってんだよぉ!」

 一層の力で、殴り返される。
 意識が飛ぼうと、足元の白い塊が倒れることを許さない。
 膝が笑い、全身から力が抜けて、立つだけのことに必死になる。

「中途半端に抱えて、背負って、気が済んだら死ぬぅ?」

 顔面への殴打が腹へのそれに替わる。

「てめぇに賭けたヤツはどうすんだぁ。てめぇに賭けて、そんで死なれて、賭けてきたぶんが全部パーだぁ」

 打たれる。打たれる。
 身体が浮くほどの衝撃にも、鋼鉄の塊が逃がすことを許さない。

「そんで、失った賭け分に泣きを見たそいつのことを、草葉の陰から見るのがてめぇの望みかぁ?」

「ぐっ、ぐふぅっ……!」

「そんなヤツに、ハナから賭けるヤツはいねぇんだよぉ。死ぬっつーのは、そういうことじゃねぇかッ!」

 内臓を押し潰すほどのアッパーが鳩尾に突き刺さる。
 目がひっくり返って、胃液が遡上して、前のめりになって悶え苦しんで。
 それでも、俺は。

「俺に、できる、ことは…………それ、くらいしか、ない……ッ!」

「やっぱり……おめぇも、その先に行こうってんだな。……なら」

 屈みこんで見上げた俺の目が、握り合わせ、振り上げたガトルの両手の底を見る。
 太陽を背負い影となったその絵は、厳かなれど、慈しみに溢れた荒神のようにも見えて。

「その片道切符は、俺が取り上げる」

 落ちてくる影が、俺の視界の全てを遮った。

 *

「ゼン、弱いね」

 その囁くような声を聞いた時。
 俺は、宙を舞っていた。

「がぁっ……!!」

 直後、全身が地面に叩き付けられる。
 同時にそれまで堪えていた痛みが一斉に声を上げた。全身にのしかかる大きすぎる重力に、手足も頭も、もうまるで言うことを聞かない。
 気づけば、意識も遠退いていこうとしていた。

「ゼン! ゼン……っ!?」

 そんな折のこと。
 しばらくぶりの声を聞いて、俺はすっかり安心した。

「……アデル、か」

「ゼン!? どうしてこんな……やめて、寝ないでゼンっ!! おねがい、おねがいだから……っ!」

 思えば、歩き詰め隠れ詰めで、碌に休んでいなかった。
 倦怠感が全身を包み込んで、遅れて心地のよい重みがじわじわと広がってゆく。
 痛みはもう感じない。
 アデルの声も聴けた。
 だから、このまま眠ってしまおう。

「嘘よ、やだ……いやだっ、お願い、目を開けてゼンっ! ねぇ、ねぇったら、おねがい……だから……っ」

 それは、落ちる寸前の意識が見た夢だったのだろうか。
 小さな、だけど綺麗な、優しい歌が聴こえていた。

 *

 私は一瞬だけふたりの方を振り返った後、目線を前方の大男に戻した。

「アイツは死んでねぇよ。そんな鍛え方はしてねェ」

「そんなの知ってるよ。でもおねえちゃんはそう思ってるみたい」

「しかしなぁ、今度は"炎"かぁ。まさかアレを溶かして引き剥がすとはなぁ、黒いお嬢ちゃんよぉ。踵落としで割りこんできたのはいいが、まさかアイツを巴投げにするとは思わなかったがぁ」

「…………知らない詩、うたってる」

「なにぃ?」

 もう、そんなに大事なひとになってたんだ。
 私に隠して、ずっと、深いところで想いを育ててたんだね。

「うんうん。なんでもない。でも、あなたを倒す理由ができた」

「ほおぅ」

「あなたの余計なおせっかいのせいでこうなった。こんなことしなくても、普通に言葉で伝えればいいのに」

 私の言葉に、目の前の大男はぎょっと目を剥いて、それから頭を掻いた。

「ま、不器用なりの辛いところさぁ」

「かっこよくないよ。おじさんも、ゼンも」

「ん、んぅ……?」

「気に入らないんだよ。そういうズルいところで点を稼ごうとしてるヒトが」

 身に纏う炎の力が強くなる。
 感情の昂りに比例して、魔法が強くなるのがわかった。

「怒ったよ。怒ったら、止められないんだよ」

 私は足に張り付いた白い粘着物を、ぶん、と一蹴りに振り払う。
 飛散した粒が男の頬につく。それを男は爪で掻いて、けれどもう剥がれず固まってしまって、それの何が愉快か、男は小さく笑った。

「……なるほど。お上がお前を探してる理由もなんとなくわかったぜぇ。ま、俺には関係ねぇことなんだが――」

「……あれ」

「あぁ?」

 私の漏らした言葉に、男は怪訝な表情を浮かべた。
 そうして男は、私の目線が自分に向いていないことに気づく。
 後ろか? そう思い、男は身体を正面にしたまま、目線だけを肩の後ろにやるようにして、小さく振り返った。
 そうしてから、身体全部で、ぎょっと振り返る。

「な、なにぃ……!?」

 大男の表情は明らかに狼狽していた。
 ぞろぞろと、向こうから駆け寄ってくる幾つかの人の気配。
 それらは大男の振り向きに応じ、溌剌と応えた。

「ガトル班長! 応援に参りました!」

 手にした得物を私に向けて構え、ずらずらとガトルという大男の周りを囲む大鐘堂の騎士たち。
 その出で立ちは皆、ガトルよりも遥かに細く、若さを感じさせた。

「応援だとぉ!? そんなもんは呼んだ覚えはねェ!」

 その中のひとりの肩をがしと掴み、ガトルは声を張り上げる。
 そうして振り返った騎士の表情を見て、ガトルは殊更に顔面の筋を強張らせた。

「自分たち、班長の力になりたかったんです!」

「俺たちに迷惑かけたくなくて単独で出動したんですよね! でも、追ってきて正解だった!」

「てめぇら、出動命令も出てねぇのに出てくることがどういうことかわかってんのか!」

「わかってます、それでも班長の力になりたくて……それに!」

 先頭の若い男が人差し指を指す。
 それは私に向けて……ではなく、私の後ろに向けられていた。

「裏切者の粛清もできるんです。班長の目的は彼……ゼン・モーゼリアの逮捕、粛清だったのでしょう?」

「……そいつは……ん、んぐぅ……!」

 違う。
 その男の目的は、もっと単純で、もっと馬鹿馬鹿しいものだ。

「そうだよ」

「ん!? お、おい、お嬢ちゃん」

「そのおじさんはゼンを捕まえにきたの。騎士のお仕事もたいへんだね。殴ったり殴られたり」

「その色……その佇まい……貴様、もしやスラムのレベル9か!」

 どもるガトルの様子にも気付かず、若い人たちは得物を手に躍起になって私に注視する。
 不器用にやってきたツケだろう。ガトルに肩入れする気はないけど、こうしなきゃ私は彼を逃がしてしまう。それではガトルに怒りをぶつけられない。

「さあ、どうだろう」

「貴様、我ら大鐘堂騎士隊に楯突くとどうなるか――」

 瞬間、宣う男の威勢がしゅんと萎む。そうしてすぐ、思い出したように怒りの色をその目に呼び戻した。
 何があった?
 その理由は、背中の声が教えてくれた。

「……久しぶりだな、お前たち」

「ゼン……っ! で、でもダメよ、まだ動かないで……!」

「アデル、あいつらだ。そうか、今は先輩のところにいるんだな……」

「……っ! ゼン……モーゼリア……!」

 不自然に狼狽するガトル。ゼンを前に意気を消失しかける若い人たち。それに対するゼンの態度。
 騎士時代の因縁とか、そういうものだろうか。この人たちもこの人たちで大変なんだな、と私は思った。

「見ない内に、たくましくなったな。先輩の下でしごかれてりゃ、そうなるか」

「ゼン、あいつらは敵よ! 私に任せて、もう黙ってて……!」

「そこにいるのは、アデル……大鐘堂の白い悪魔、アデル・イルディレーテ……!」

 その言葉にアデルの身体が反応する。
 ゼンの身体を抱きながら、アデルはその顔に、私には一度も見せたことのない、凄まじいまでの敵意を詰め込んで。

「――やぁ、久しぶり。再会して早々、どっちか選ばせてあげるよ。尻尾を巻いて逃げ帰るか、それともボクの魔法にすり潰されるか……どっちがいい?」

「うっ……!」

 アデルのその言葉に、ガトルを除く、若い騎士の全員が息を飲んで後退った。
 私はもう一度アデルの顔を見る。
 あんな顔、できるんだ。
 きっと、アデルはしたくてあんな顔をしているのではない。
 頑張って、必死になって作っているのだ。あの、人殺しを愉しむ狂人のような表情を。
 ゼンのために。
 ゼンのために。
 私はここに立っているのに、私のことを見てさえいない。
 もし、私がゼンみたいにボロボロになったなら、アデルは私のためにあんな顔をしてくれるのだろうか。

「ずるいなぁ」

 カッコ悪くならないと、おねえちゃんに構ってもらえないんだ。
 でも、ゼンが弱いんじゃ、私は弱くなれない。おねえちゃんを護るひとがいなくなるから。だからゼンは本当にずるい。
 でも。
 もしかしたら、かっこいいところを見せつければ。
 ゼンより強いんだってところを見せつければ、私のことをもっと見てくれるかもしれない。
 そうだ。
 ゼンの役を、私がやればいい。

「おねえちゃん、大丈夫だよ。そんな顔をしなくても大丈夫」

「……っ、イ、イリヤ……?」

「私がぜんぶ、やっつけてあげる」

「イリヤ、あなた、」

「ねぇ、いいでしょ、騎士さんたち。私を捕まえにきて? そのかわり――」

 我ながら名案だった。
 この胸のもやもやを晴らしながら、おねえちゃんにいいところを見せられる。

「私、あなたたちを襲うから。ね?」

 瞬間、騎士たちの表情がすっと青ざめる。
 それはまるで猫に噛まれる前の鼠のような、迷っている余裕のない、より強い獣を前にして殺気立つ非力な動物のそれ。
 その中で、ガトルだけは違う。

「……お嬢ちゃん、俺に恩を売る気かい」

「そんな難しいことは考えてないよ」

「そうか。――だがなぁ、その言葉を聞いちまった以上、俺は今度こそ"騎士として"お嬢ちゃんに対峙しなきゃなんねェ」

「それでいいの」

 私は足元に転がっていたガトルの兜を蹴飛ばす。
 ガトルはそれを受け取り、被り、バイザーを下ろした。
 そのバイザーの上げ下げが彼のスイッチなのだと、ようやく滲み出た戦いの気迫から、私は察する。

「……お嬢ちゃん、あんた、殺し合いを楽しんでるのかい」

「恵まれてるあなたたちと違って、こっちはみんな、毎日生きるか死ぬかの中で過ごしてるんだよ。楽しむも何もない」

「それが、その洒落にならねぇ強さの所以か」

「そうだけど、今は違う」

 私は拳を握り締める。
 今、この私を動かしている感情はひとつ。

「怒ってるんだよ。ゼンにおいしい思いをさせた、あなたたちにね」

「滅茶苦茶だぜぇ」

 そのやりとりが最後、私とガトルを隔てる空間に張り詰めた空気が漂う。
 戦いはもう始まっている。啖呵を切った以上、向こうは全力でかかってくるだろうし、私も全力で向かわなくてはならない。
 私の背後には手負いのゼンと、それにしがみついて動けないアデルもいる。こう言ってはなんだが、状況はなかなかに切迫していた。
 でも、それでいい。
 それでこの胸のもやもやが晴らせるなら。おねえちゃんにいいところを見せられるなら。
 何人相手でも、やることは変わらない。

「参るぅ」

「参ろう」

 均衡を保っていた空気が、ふたつの足のひと踏みを機に、圧縮されて割れて砕けた。

 *

「伏せなさーーーーいっ!!」

 聞き慣れた声に私の意識が奪われる。
 踏み出した脚を止め、振り返ろうとして、瞬間。

 ドーン!!

「なっ、なんだぁ!?」

「ぼ、防御陣形! ガトル班長をお護りしろ!」

「げほっ、げほっ! 砂埃だらけで何も見えない!」

「落ち着けテメェら! 互いの位置を把握しろ! チッ、砂埃だけじゃねぇ、スモークグレネードなんてどこで仕入れてきやがった……!」

 *

 パン!
 それは、イオンがネルの頬を打った音だった。

「イオン、私をぶつのはおかしい。騎士隊とはどのみち戦闘になってた」

「説教は後。みんな、とにかくここから逃げるわよ。連中、あいつら以外にも潜伏してる奴らがいた。とにかく身を隠して捜索の目を掻い潜る。ゼン、動ける?」

「イオン。奴らは追ってくる。ここで抑えなきゃ状況は悪くなる」

「潜伏している勢力が合流してきても同じことを言える?」

「なんとかする」

 イオンの、ネルを見る目が感情的になりかけていることに私は気づいた。
 彼女らしくもないことだけど、私にはイオンがそうなる理由がわかっていた。
 イオンからすれば、あの冷静沈着なネルがここまで強気に反発してくるなんて予想だにしていなかったに違いない。
 言わば降って湧いたイレギュラーだ。ネルがなぜそんなにムキになっているのか、それがイオンにはわからない。
 さっきの、まるで騎士隊を挑発するかのような物言いもそう。聴いていたイオンの表情は不安と困惑に満ちていた。ネルは、そんな風に自ら戦いを欲するような子ではなかったはずだ――と。
 でも、イオンにはわからなくても、私にはわかる。
 ネルが何を考えて、どうしてそんなことを言ったのか。
 なぜなら、私はずっと、そばで見てきたから。

「ネル。ここではアデルに危険が及ぶ。そしてあなた自身にも。自分のことも大事にしてって、アデルに言われなかった?」

「…………だけど」

「ゼンとアデルにいいとこ見せるなら、ここを乗り切らないと。急いては事を仕損じる。そうじゃない?」

「…………わかった」

 表情は変わらず憮然としていたが、それでもネルは一応の納得を見せたようだった。
 イオンは不思議そうな目で私を見てから、なるほど、と息をつき、彼女もまた自身の胸に巣食う言い得ぬ苛立ちを追い出すべく頭を掻いた。

「叩いてごめん、ネル。でも、リリの言葉が届いたなら、今すぐにでもここを離れましょう。いいわね」

「気にしてないよ。私もごめん。リリにもごめん。おねえちゃんにも」

「え、わ、わたし? 私は……うん、やっぱり一旦退いた方がいいと思う。イリヤひとりに負担をかけるのはダメ。戦う時は、ちゃんと作戦立てて、一緒に戦おう」

「うん。おねえちゃんが言うなら」

 ネルの、アデルを見る眼差しを見て、思う。
 ダイブを経て、色んなものが少しずつ、あるべき形に戻ろうとしている。

「さて、そうと決まればさっさと退散! ゼンは私とリリが肩を貸すから、ネルは先頭を! アデルは後ろについてきて!」

「路地裏に入ろう。前に行くから、ちゃんと着いてきてね」

「わ、わかった!」

 私たちはスラムの路地に紛れてゆく。
 願わくば誰も戦うことがありませんように、誰も傷つくことがありませんようにと、そう願いなら。

「――まぁ、そうは問屋が降ろさねぇんだけどなぁ」

 果たしてその儚い願いは潰える。
 行く手を遮る、白い肉厚の鎧を着込んだ男と、その班員らしき若い騎士たち。
 皆、得物を構えて私たちを睨む。その中でも別段、甲冑の男は悠々として。

「投降しろぉ。それが誰も傷つかねぇで済む最善の道だ」

「イオン、リリ、おねえちゃん。ゼンを連れて逃げて」

「ネル、でも……!」

 ネルの提案も然り。イオンの躊躇も然り。
 どちらかを選ばなければ、私たちは全員まとめてお縄につくことになる。
 私はどう考える?
 あのガトルという男に対抗できるのは……悔しいけど、この中ではネル以外にいない。
 けれど、単独で行かせるのも論外だ。若い連中は有象無象、簡単にあしらえると見積もっても、無視できないのはレーヴァテイルの存在。
 人数が増えるほどその戦闘力を指数関数的に増加させるレーヴァテイルに対し、一対多の戦闘を仕掛けるのは最悪の手。
 見る限り、相手方のレーヴァテイルは最低でも二人。そこに屈強な前衛要員が混ざる以上、流石のネルでも単独での対処は不可能に近い。
 ……なら。
 こちらも人員を割けばいい。
 恐らく敵前衛の戦力のほとんどはあの大男が占めている。ここを乗り切れば、あるいはそれだけで逃げ果せることができるかも知れない。
 満身創痍のゼンの搬送には、少なくとも二人の随伴が要る。
 アデルとゼンを離れ離れにさせてしまうのは悪手だ。この二人の組み合わせは変えられない。
 残る候補はイオンと私。
 イオンは確か、防御魔法を使えない。
 そして私は、強力な攻撃魔法を扱えない。
 ネルはどうあっても前衛を張る。
 なら、そのサポート役として適切なのは――。

「……私が、ネルと残る」

「リリ……!」

「イオンも同じ結論に行き当たったでしょ。大丈夫。私に任せて」

「イオン。大丈夫。私とリリを信じて」

 二人ぶんの眼差しを前に、イオンはしばらく目を閉じて沈黙する。
 リスクとリターンの検算の間に、自分の気持ちの整理を合わせて。

「……わかった。必ず、無事で帰ってくるのよ」

「ええ」

「任せてよ」

「じゃあ、行くよ、アデル、ゼン」

「う、うん。イリヤ……私も、イリヤなら大丈夫だと思ってる。だから、無事でね」

「おねえちゃんこそ、重くっても引きずって運ぶんだよ」

 その言葉を最後に、私たちは互いの道を行くべく、それぞれの覚悟を胸に状況に向かった。
 同じくそうしようと深呼吸を繰り返す私の背中に、その声はかけられる。

「リリ。忘れ物だ。大事なものなんだろう」

「あっ……ええ。そう、これがあれば」

 私はゼンの手からそれを受け取る。
 どこかで浮ついていたパズルのピースが、カチリとはまって私の中で落ち着く。
 包みを払い、真鍮の薄煤けたそれを握り。
 気付けば、身体の中の疲労感は消え去っていた。

「これがあれば、私は最高の仕事ができる」

 私に恐れるものは何もない。
 なぜなら、これは、私の魔法の源だから。

 *

「おい、お前らは逃げた方を追え」

「はっ、はい!」

「班長も、ご武運を!」

「てめぇらがな。……さて」

 スラムの大きな通りの上でガトルと対峙する。
 相手はひとり……ふたり……三人?

「ちっ、おめぇらまで来てたのかよ」

 呆れたような、面白がるような表情で悪態をつくガトル。
 その背後に現れたのは、白装束をしたふたりの女性。

「ったく、大鐘堂にはバカしかいねぇのかよぉ。金にもなんねぇことに頭突っ込みやがってぇ」

「三人寄れば文殊の知恵、って言うよ」

「ふっ……はっはっは! 違ぇねぇ。そしたらどうだぁ、あんたらは二人、こっちは三人。寄った馬鹿に勝つ算段はあるのかぃ?」

「ネル!」

「リリ」

 かけられた声に振り返る。
 そこにあったのは、不敵で強い女性の笑み。

「三対三よ」

「だそうです」

「あんたらも、つくづくネジが飛んでるみてぇだなぁ。いいぜぇ、その強気の理由、俺にとくと見せつけてくれぇ」

 ガトルが兜のバイザーを下ろす。
 私も正面を見つめ直して集中する。あの顔ができるなら、もう後ろを見る必要はない。

「始めるぞぉ」

「……すぅ」

 カチ、カチ、カチ――。
 集中力を高める私の耳に、どこかで聞き慣れた音が届く。
 それが何かを確かめたくて、もう一度だけ後ろを見て――私は、リリのその発言に合点がいった。

「そっか。プルもいるんだね。……じゃあ、」

 私が怒っているところなんかよりも。

「かっこいいところ、見せた方がいいかな」

 決して揺れない、変わらない音の中で。
 私は、私が変わるための詩を始めた。
 ――世界が、赤く色づく。

「っはは、ったく初めてだぜぇ。体を燃やしてかかってくるヤツはよぉ」

 それは、アデルとのダイブの中で覚えた最初の感覚。
 テーマは、感情を燃やして障害を焼き払う――!

「燃やすよ」

「壁は厚いぜェ!」

 先んずれば即ち人を制す。
 私はガトルの懐に飛び込むべく疾駆した。

「怖いものはねェって感じだなぁ!」

 加速する私に向けて、それより速い速度で槍の先端が向かってくる。
 目で見ていたら追いつかない。なら、向こうが動いた瞬間にこちらも動けばちょうどいい。

「速えェ!」

 ぴったり槍の先端を掠るように避けた流れで懐に侵入、鎧の腹に掌打をひとつ入れる。
 インパクトは、しかし鎧に触れる直前で発生した。障壁だ。見えないバリアが私の攻撃を拒否している。

「だがなァ!」

 ガトルはこうなることを見越していたのだろう。槍を引き戻すことで発生する身体の捻りを利用し、入れ違いに逆の拳を前に繰り出す。
 その力のこもった正拳突きも、鎧が邪魔してすっかり鈍重だ。当たれば確かにただじゃ済まない、けれど攻撃は当たらなければ意味がない。

「よっ」

「はァ!?」

 迫りくるガトルの拳に手を添え、身体のバネを使ってぴょんと跳躍する。馬跳びの要領だ。
 そしてその瞬間、私は炎の魔法を解く。馬跳びの軌道はそのままに、私はがばっとガトルの頭部にしがみついた。

「……!」

 添え物のレーヴァテイルの内のひとりが息を飲んだのがわかった。
 障壁があるのに、どうしてガトルの身体に接触できている? そう言いたいのだろう。
 割と簡単な話だ。
 魔法を使っていない私に出せる敵意はほとんどない。私なんて、魔法がなければただのひ弱な女の子。魔法はそれを知ってるから、謳っていない私を通した。
 魔法なんてそんなものだ。所詮はヒトの心から出てくるものなんだから。
 で。

「直火で焼く」

 私はガトルの顔面から後頭部、背面へと身体を滑らせる。
 そのまま腕を首に回し、脚は胴に巻きつけて、ガトルの背中にがっちりと絡みついた。
 後は、詩を謳い直すだけ。

「よく熱を通しそうだね」

「ちっ……くしょうがぁ!」

 瞬間、首に絡めた腕が万力のような力で握り締められる。
 完全に組みついた、解くのは無理だと思っていても、やはり地力の差は歴然。
 私はガトルの背中から引き剥がされたが最後、そのままメリーゴーランドのように振り回されて、その極めつけに宙を舞う。

「撃てェ!」

 合図と同時に、大きなエネルギーの塊が迫ってくるのがわかった。
 中空、飛ぶことも跳ねることもできないその場所で、飛来するそれを避けることなんてできない。
 ――直撃。爆発。

「はッ、紙みてェな体なら、よく燃えるのはそっちの方だぜぇ!」

 大きな力に弾き飛ばされて、私の身体は流れ星のように宙を翔けた。
 けれど意識はあまりにはっきりとしていた。私は難なく体を捻り、ちょうどリリの前方少しの場所に着地を果たす。

「ん……んっ、オイ、無傷だァ!?」

「この火の魔法、防御する力がないみたいだから。助かったよ、リリ」

 リリは応えない。
 当然だ。謳っているから。集中して、固い表情をして、必死に詩と向き合っているから。
 謳いながら動くことができる、戦うことができる私とは違う、レーヴァテイルとしてあるべき本来の姿。
 私は心の中で分担ができる。どうしてなのかはわからない。
 わからないけど、それが私の一番の武器だから。

「次、いってみよう」

「三叉槍の陣んん!」

 雄叫びのような号令が響き渡ってすぐ、後ろに控えていたレーヴァテイルのふたりが、互いに距離を取るようにして横に展開した。
 さんさそう。三叉槍。確かに、こちらから見ると横一閃に並ぶ槍の切っ先のように見えないでもない。
 わかりやすい、火力押しの図だ。

「いざァ!」

 ガトルが突撃してくる後ろで、どちらのレーヴァテイルも頭上に魔法の光球を育て始める。
 前衛は時間稼ぎ。本命は展開するそのふたつの攻撃魔法による連続連撃、もしくは同時攻撃だ。
 厄介ではあるが、やりようはある。

「先手ェェェィ!」

 私は炎の魔法を纏ったままガトルの肉迫に相対する。
 あるいはチャンスだった。今のガトルは魔法の庇護のない、純粋に鎧の防御力に頼るだけの存在。
 鎧と言えど、継ぎ目を突けば肉に刺さる。出鱈目に手を出すのではなく、一撃に意識を研ぎ澄ませば、あるいはそこで勝敗は決する。
 蝶のように舞い、蜂のように刺す。
 手数なら、まだこちらに利がある。

「……!」

 突きかと思い身体を沈めた瞬間、槍の軌道が変わる。
 フェイントだ。先に出した槍の動きに続くようにして、ガトルの身体が踏み込んだ足を軸にぎゅいっと回転する。
 横一文字のなぎ払い。避けるのが難しい攻撃のひとつ――。

「ほっ」

 描いたのは、頭を軸に、円を描くようにぐるっと跳躍して、元の位置に戻ってくるイメージ。
 そのイメージに追従する。踏み切って、身体が浮く。すると槍が私の身体のちょうど下を通過する。
 でも流石に一回転はできなくて、私は地面に手をついて、後は側転の要領で立位に戻った。
 ピンチをやり過ごした後には、チャンスが待っている。

「カラダ、入りすぎだよ」

 ガトルの身体は渾身の横振りを外したことで振り回され、結果、私の目の前にその正中線を晒しきってしまった。
 いわゆる”死に体”だ。槍は脇を締めて体重と一緒に動かす「突き」の道具。その重さと、そして重心の遠さゆえに、横に振るにはあまりに適さない武器。
 それでもそうしたということは、それだけその一撃に賭けていたということ。
 そして、それを外してしまったということは、相応のリスクが返ってくるということ。

「しまっ――」

「女の子は飛ぶんだよ。おじさんたちと違ってね」

 鎧の継ぎ目は身体の前面には出ないようになっている。前にいる人と戦うのだから当然だ。
 でも、それは裏を返せば、反対側は薄くて脆いということ。
 ガツン。

「ぐぬうっ!!」

 膝の側面から裏面にかけて蹴り込んだ音に混じって、ジュウ、という音が聞こえた。
 背面に勝機あり。ここを巧く突けば、鎧の防御力も無視できる。

「畜生がぁッ!」

「だからダメだって」

 頭に血が昇ったか、ガトルは横振りに空を切った槍を、もう一度振り向きざまに薙ぎ払いに来た。
 さっきの身のこなしを予測しての振りの高さが、かえって私に楽をさせる。
 ぺたーと前後に開脚、低頭に伏せて、腿の付け根が接地した瞬間、地面を手でぽんと押してしゃがんだ姿勢になる。
 目の前には、再度槍に振られて正面に開ききったガトルの死に体。両脚は槍の重さの処理のために居着き、もはや何をすることも叶わない。
 見上げる私に、小さな隙間が見えていた。
 それは、鎧の胴体と、兜の付け根の境界。

「ハチなんだよ」

 首元を覗くその僅かな間隙は、それでも靴のつま先を刺し入れるには十分だった。
 私の倍ほどもありそうな巨体の頸部に突き込む蹴りは、ほぼほぼアイ字の開脚。
 しゃがんだ体勢から、伸び上がるバネの力に股関節を開放する力を合わせて。全身を一本の槍のようにして、私は、この尖った焼印をガトルの首元に突き立てた。
 それをして、果たして私も死に体になる。
 けれど、私のこの一撃は命中した。手応えもある。ガトルは痛打をもろに食らい、この一瞬の間では私に反撃することもままならないだろう。
 私は突き刺した脚を引き戻す。引き戻して、次の動きに備える。
 引き戻す。
 ……引き、戻せない。

「バカなの――?」

 目元を隠した兜の奥で、にぃっ、とガトルが笑った気がした。
 爪先を捉えて離さない、何かが引っかかったような感触。
 こいつ――私の靴を噛んでいる?

「あっ!」

 伸ばしたままの蹴り脚が握り締められる。凄まじい力で捻り上げられる。
 この間も私は魔法で燃えていた。それなのに、ガトルは怯む様子もなく、絞る力をただただ引き上げてゆく。

「俺の好きなモンを教えてやる」

 私は離れたところで謳うふたりのレーヴァテイルに目をやる。

「それはなぁ、仕事帰りに浴びる、死ぬほど熱い一番風呂とぉ」

 その頭上に掲げる光球は十分に膨らみきって――。

「火で炊いた飯盒に匙ぶっ刺して食う、アッツアツの白メシよォ!!」

 ふわっ、と浮いた身体が、瞬間、血の味をいっぱいに味わう。
 高く持ち上げられて、そのまま地面に叩きつけられて。
 焼き切れそうな意識の中で、私は再び宙を舞った。

「今だァ!! 次はモノにしろぉ!」

 投げ出された身体が地面を転がる。
 相手も学習している。地面に魔法を着弾させた方が効率がいい。当たればしっかり爆発するから。
 でも、私はどうして大丈夫そうだった。思考する余裕がある。思ったほどのダメージは受けていない?
 全身の被害状況を把握しながら、けれど光球は無慈悲に迫ってきていた。
 その大きく膨れ上がった二発もの魔法を一度に対処するには、普通の鱗じゃ足りない。
 それなら。

「ちぃっ、ずいぶんと手こずらせやがって。流石の俺の舌もヤケドして――なんだとぉ」

「水は大抵のものを止めてしまえる。身近で、とても強い存在」

「手応えはあったはずだぜぇ。あんたが立ってられてんのは……どうやら、その自前の魔法の力だけじゃねぇな」

 ガトルの言葉を受けて、私は自分の身体に起きていたことに気づいた。
 私の纏う水の魔法は、水っぽいぶよぶよの皮膜で全身を覆うことで攻撃のダメージを緩和する、防御に特化したものだ。
 でも、私の意識がはっきりとしているのはおそらくこの魔法のおかげではない。
 なぜなら、私はこの魔法を謳う前に決定打とも言えるダメージを受けていた。あの時既に、私の意識は薄れかけていたはずだった。
 それが今、ピンピンしている。魔法を紡いで立っていられるくらいには。
 それどころか、今にも戦う気力が漲ってくる。

「……なるほどなぁ。ゆえに三人、そう言ったわけだ」

「…………リリ!」

 そうだ、この感じ。
 この暖かさはリリの魔法。私に回復魔法をかけているのはリリだ。
 だけど、リリはついさっきまで私に防御魔法をかけていたはず。
 どこかのタイミングで回復魔法に切り替えたとしても、今の今まで、時間はほとんど経過していない。
 私が言うのもなんだが、普通、展開中の詩魔法を別のものに切り替えて、それからすぐに一定の効果を引き出すのは、とても特異で難しいこととされる。やろうと思ってできることじゃない。
 そう、私の魔法でさえ"継ぎ目"があるのだ。ある魔法とある魔法は別々のもので、それぞれ別々の効果を持ち、別々に謳わなければいけない。
 でも、リリの詩は不思議だった。
 リリの詩には、その"継ぎ目"がない。防御と回復で別々の効果を発揮しながらも、そのふたつの間には"効果のない時間"がない。
 現に、私の周りで流れているその音は、さっきから何ひとつ変化を見せていない。
 リリの謳う詩は継ぎ目のない詩なんだ。

「なぁんでテメェらみてぇなのがスラムに固まってて、大鐘堂はそうじゃねぇんだろうなぁ」

「厳しい環境で生きてるからだよ。できないことをできるようにならないと、私たちは生きられない」

「……できないこと、かァ」

「そう。だから私はあなたたちに勝つ。おねえちゃんのところには行かせない」

 私は新しく手にしたカードの最後の一枚を切る。
 それは淀みを払う魔法。
 あるいは停滞に流れをもたらす魔法。

「この風で、私はあなたを追い返す」

 ひゅっ、と私のまわりで風切り音が鳴る。
 それは渦を巻いて旋回するように、静かに、強い風を起こす。
 宇宙には輪っかを持った星があるという。
 イメージはそれ。身体の周りに、刃みたいに薄くて鋭い帯を持つ星。

「……なんか足りないな」

 その星の姿をもう少しよく思い出す。
 本で見た星の帯は、もっとつぶつぶして、ざらざらしていたような。

「……あ、こうかな」

 私は地面に手をやり、その辺の砂や礫を適当に掬い取る。
 それを身体の前でさらさらとこぼして、うん、と頷いた。

「これでいこう」

 ヒュンヒュン、と風の音に重みが混ざる。
 あの星はきっとこんな音を聴いているに違いない。そう思った。

「……冗談じゃぁねぇぞ。そりゃあ天然のチェーンソーだ。下手に近寄りゃあ兜の隙間から目を潰されるぅ。……お前ら、防御を二重に張れぃ!」

 魔法隊の詩が重なる。
 その技巧を感じる二重唱は綺麗に透き通っていて、ずっと聴いていたいくらいだった。
 けれど、なんだか細い。力がない。

「後ろのひとたち、疲れてるね」

「ならなんだぁ、時間稼ぎでもするか?」

「まさか。もう終わらせるよ」

「そっちの姉ちゃんこそ、そろそろキツいんじゃあねぇのか。あの細身じゃあ、いつ息切れするかもわかんねぇなぁ」

「リリが? なんだ、見る目がないんだね、おじさん」

「おじ……」

 私は強く大地を踏み切る。

「リリはスレンダーだけど、スラムの誰よりも体力があるんだよ。心の体力がね」

 追い風を操り、疾走はすぐに最大速度を超える。
 身体が地面を離れて浮く感覚。まるで鳥にでもなったかのような気分。
 小細工は、もう必要なさそうだった。

「ぐぅっ!?」

 私の急加速に虚を突かれたか、ガトルは迎撃の体勢を作ることもままならない内に、それでもなんとか両手に握った槍で私の突撃を食い止めた。
 噛むように地を踏み、私は手を伸ばす。
 半歩、一歩、砂の帯が詩の壁を金切り音を立てて削り取る。
 一歩、二歩、追い風を受けた腕が壁を押し破って槍を握り締める。
 二歩、三歩、暴風に耐えかねた巨木の根がみしみしと大地から引き剥がされて。

「とっ……とんだツワモノだぜ、お嬢ちゃんんッ!」

 四歩。
 槍ごと鎧ごと、私はがむしゃらにガトルを突き飛ばした。
 瞬間。

「パージッッ!」

 風に乗って飛んでいったのは槍と鎧だけだった。
 果たして外殻の内側から現れたのは、ひとりの屈強な男。
 その筋骨の甚だしく盛り上がった姿に、私はいつか見た子供番組に出てくるヒーローの姿を重ね見て。

「倒してみたいと思ってた」

「何を言ってェ!!」

 雄叫びと共に組みかかってくるガトル。
 対する私が選んだのはいつもの私。
 何も考えずに真っ直ぐ戦える、私が私に見た最初の姿。

「今度はちゃんと硬いよ」

「硬かねェ!」

 振りかぶり、振り下ろされた大ぶりのストレートパンチを腕の鱗で受ける。
 それはビシビシと骨まで染み入るような重さをしていた。もしかしたら槍に打たれるより重かったかも知れないそれに、私は不思議と高揚感を覚えて。

「なんで男のひとって殴り合いが好きなの?」

「それはッ!」

 ジャブ、ジャブ、ストレートと見せかけてのアッパー。
 捌くための鱗は一撃ごとに剥がれ落ちて、修復までの僅かなギャップをガトルは見逃さない。

「殴り合いで勝ったほうがエライのさぁッ!」

 そうして、鱗の塞ぎきらない私のお腹を目掛けて、全体重の乗ったストレートを打ち下ろす。

「男の世界ではなぁッ!!」

 ズドン。

「じゃあ、私の方がエライ」

「なっ……!」

 私は、私のお腹の一寸先で止まっていたガトルの腕を持ち。
 片手は手首の腱を潰すように握りしめ、もう片手は伸び切った太い肘の内側に当てて。

「こういうことっ」

 身体をキュッと捻り、入れ込んだ腰をガトルの腰にぶつけるようにして。
 自分の二倍もあろうほどのガトルの巨体を、私は投げた。

「がぁっ!! …………そんな、めちゃくちゃな……がはっ」

「爆発する詩。回復する詩。いろいろあるよね。私のは、私を強くする詩だから」

「ははっ、騎士、冥利に尽きるぜ……ふぅっ」

 その言葉を最後に、ガトルは天を仰いで大の字になり、それから動作の一切を放棄した。
 まさか死んでしまったわけもなく。どうやらそのまま眠ってしまったようだ。

「ネル! ネル! 大丈夫?」

 リリが駆け寄ってくる。
 私の具合を心配するように、しきりにあっちこっちを触ったり捲ったりして。

「大丈夫。リリの魔法があったから。決まり手も、リリの魔法のおかげだね」

「……本当に、大丈夫そうね。よかった。……にしてもこの腐れ騎士、子供相手に本気だしてっ、最低ね!」

 ペッ、と地面にツバを吐こうとして持ちこたえるリリ。
 ツバを吐くのはよくないから、抑えてくれてよかった。

「そうかな?」

「そうかなって……どういうこと?」

 リリは心底軽蔑するような眼差しでガトルを睨みつけている。
 けれど、私にそうした気持ちはない。だって。

「このおじさん、手を抜いてたから」

「え……!?」

「私が捌けるレベルに合わせて力を出してた。おじさん、ほんとはもっとずっと強いよ。じゃないと、こんな上手な手の抜き方はできない」

「……で、でも、この騎士が、その、ネルに対して手加減する理由は……!」

「ちゃんとある」

 ガトルと一緒に戦っていたレーヴァテイルのふたりは、さっきまで謳っていた場所を動かずに佇んでいる。
 額から顔に垂らしたベールの奥の表情は見えなかったが、きっとガトルの動機はわかっていたに違いなかった。
 ただ、ガトルがそんなふたりの気持ち、もとい気苦労に気づいているかは微妙なところだ。
 それでもついてくるあたり、この人たちもちょっと特殊なのかもしれない。

「リリ、こうしてる場合じゃない。融通が利かないのはあっちだよ。おねえちゃんたちが危ない」

「ちょっとネル、どういう意味なの、そのおっさんに理由があるって!」

「リリみたいに不器用ってことだよ。男同士って、大変だね」

「はぁ!? ねぇ、ちょっと!」

 ひとつ山を越した裏で、別のもやもやが胸の内を燻っていた。
 本当に怖いのは、本音と建前を使い分けられない、傷を負う怖さも知らない正義の人たち。
 きっと談笑している余裕はない。
 私はおねえちゃんとゼン、そしてイオンを追うべく、スラムの路地を駆け抜けていった。

 *

「そっちにはいたか!?」

「いいや、いない! だがこのあたりに潜んでいるのは確かだ!」

「包囲網を狭めろ! 敵は必ず近くにいるぞ!」

 崩れて人の住む場所じゃなくなった建物の二階。
 傾いた窓の隙間から外の様子を伺う私に、アデルは不安そうに声をかけた。

「ど、どうするの、イオン。このままじゃ……」

「そうね。袋の鼠、ってとこかしら」

「そんな……!」

 手は既に考えていた。
 けれどリスキーさが拭えない。とは言え他に打てる手もない。

「……俺が、囮になろう」

「ダメっ!」

「アデル、声が大きい……! でも、アデルの言うとおり、論外よ」

「なぜだ」

「私はそんな卑怯者じゃない。手負いの人を犠牲にするようなことはしないわ」

 そう言って行く手を遮る私を、ゼンは押し返してまで行こうとする。
 私がそれを止めるまでもなく、アデルがゼンを押し返した。力いっぱい瞼を絞って。

「だから、ダメぇ!」

「……ふたりは勘違いしている。もう傷もだいぶよくなった。あれくらいの練度の人数相手に撹乱を仕掛けるのは容易だ。こっちにはそのための装備もある」

 ゼンは立ち止まり、極めて冷静な面持ちでそう言った。
 けれどアデルの形相は変わらず、それどころかより深刻さを極める一方で。

「嘘よ! だって、左手だってまだ動いてない……!」

「右手は動く」

「ばかっ!!」

 その夫婦喧嘩を眺めながら考えを巡らせる。
 ゼンの判断は、確かに妥当だった。
 戦闘、戦術に長けた自分が囮役を買うことで、追っ手に対して体力的に劣る私たちをより安全に逃がす。
 この場にいるただ一人の男として、そしてアデルの前で出した結論として、それ以上の模範解答はない。
 でも、それはあくまでもゼンの視点だから言えること。

「さっきも言ったように。手負いの人間は前には出せないわ。助け合いが信条のスラムで、そんなことはできない」

「君の心意気は理解する。だが、信条のためにわざわざ危ない橋を渡るのも本末転倒だ。抱えるリスクは俺の案が最も低くつく。相手は融通が利かない新人だぞ。引き金に常に指をかけているような生き物だ」

「ゼンの言うことが一番筋が通ってるのはわかってるのよ。でもさ、それでも引っ込ませたい情があるってのを、まあ、わからないでしょうねぇ、アンタには」

「情がどうこうって状況じゃないだろ。何度も言うが、相手は俺たちを、」

「殺す気で来ている、でしょ? なら尚のこと、アンタは自分の立場を理解しなさいよ」

「イオン、だが……」

 この男は、こういうところで行かせたら死ぬタイプなのはわかってる。
 私はゼンを死なせられない。
 ゼンが名誉の戦死を遂げたいのならそれもいい。大の男が決めた道だ。それ自体を止める気はない。
 けれど、ゼンが死んだら、色んなことが壊れてしまう。
 アデル。ネル。二人の関係。これからの未来。
 それらを育む揺り籠を支えているのは、あるいはゼン、この男なのだから。

「わかったでしょっ! ダメなのっ! 今のアンタじゃ的になるのがせいぜいのとこですよ! 色々と……無責任よ!」

「他に手はないんだ。お前を行かせるわけにもいかないし、イオンも同じだ。詩魔法では隙が大きすぎて囮役は買えない。この状況は切り抜けられないんだ」

「それは違うわね」

「なに?」

 怪訝な眼差しで私を見るゼン。
 それに対し私は、唇の前で人差し指をつんと立てて。

「今のゼンの言葉には、勘違いが一点だけあるかなぁ」

「……なんだ、それは」

「私じゃ囮はできない、ってとこ。どうしてそう思った?」

「どうしてって、そりゃあ……」

「魔法の詠唱に時間がかかるから?」

「そう、だろう。詩魔法は、効果を発揮できるレベルまで膨らませるのに時間がかかって、」

「時間がかかんなかったら?」

「……どういうことだ。よくわからない、説明してくれ」

「しっ!」

 私たちの潜む建物の前で気配がざわつく。

「残っているのはこの辺か」

「出会い頭の戦闘もありうる。気をつけて探すぞ」

「……話してる暇はないみたい。さあゼン、アデル、行きなさい」

「い、イオンが行くの……?」

 狼狽するアデルの額をこつんと小突く。

「アデルも、今更なに言ってんのよ。それに、アデルは見てたんじゃない? それとも必死だったから覚えてなかった? あの時のこと」

「あの時…………あっ、もしかして」

「さ、わかったら行って。いいわねゼン、アデルを傷つけたら承知しないわよ」

「……そこまで言うなら、わかった。確認するが……本当に、勝機はあるんだな」

「当たり前でしょ。あんまり、私たちをナメてくれるんじゃないわよ」

 その言葉を最後にして、私はアデルとゼンを階下に下ろす。
 あとは二人が上手く逃げてくれることを祈るのみ。
 そのためにも、私は私にできることをする。

「スラムのレーヴァテイルの本領、見せてやろうじゃない」

 久しぶりに、身体が熱を帯びていた。

 *

「あっ!」

「どうしたの!?」

 家々の屋根伝いに街を駆ける私と、それを下から追いかけるリリ。
 その最中、私の目がようやく人の気配を捕まえる。
 けれど、その光景を捉えた時。
 私は、胸のざわめきに、冥い炎が灯るのを感じた――。

「囲まれてる……イオンが……」

「えっ……!?」

 イオンを中心に、見える限りで五人……六人。
 その包囲網の真ん中で、イオンは力なく腕を上げて立ち竦んでいた。
 前方には、槍を持った騎士がひとり。
 考えたくもない、最悪の想像が頭の中を過ぎる。

「イオンを……助けなきゃ……」

「……ネル……?」

「また、あの時と同じだ……私の力不足で、イオンを危ない目にあわせて……」

「ネル……? あっ、ちょっと!」

 私は屋根から屋根へ飛び移り、イオンと周囲の騎士を見下ろせる位置につく。
 ここからなら一網打尽だ。
 飛び込んで、イオンを救い出して、それで。
 ――周りのやつらを、メチャクチャにしちゃえばイイ。

「ネルっ!!」

 私ははっとして瞳の焦点を合わせた。
 冥い色に染まりかけた意識を呼び戻す声。
 イオンの声だ。私を呼んだ、イオンの声。

「そこで見てなさい! 私たちのやり方をね!」

 そう言って、イオンはすっと目を閉じる。
 力なく上げていた両腕は、気づけばしゃんと天を向いて。
 姿勢に、一本の筋が走る。

「おい、何をしている!」

「これ以上動くと……ん? ……こ、これは……おい!」

 瞬間、その詩は始まった。
 イオンの詩だ。
 あの時、暗い研究所の逃避行の中で、その背中で聴いていたのと同じ詩。
 けれど、今私が聴くそれは。
 その時の詩より、もっと悠々と、もっと堂々としていて。
 そして、何より。

「なっ、おい、なんで、この魔法、」

「こんなに、膨らむのが速いんだ……!」

 私と同じ言葉。
 私と同じ痛み。
 イオンの謳う詩は、誰よりも大きく、誰よりも広く。
 そして何物よりも、熱い。

「ぐぁっ、あっ、アツっ!?」

「ちっ、近づけないっ! あっ、あついッ! なんなんだっ、これはっ!?」

「太陽ね」

 リリが私のそばに来て静かに言う。
 太陽。
 それは目を背けたくなるほど眩しくて、肌が焼けるほど熱くて。

「イオンは、私みたいな細工の効いた詩は謳えない。でも」

「とにかく撃てっ、銃を撃てぇーッ!」

「ダメだっ、前が向けねぇっ! さっ退がれっ、体が燃えちまうぞぉッ!」

「一度謳わせたら、手がつけられないのよねぇ」

 凄い。
 イオンの魔法には敵がいない。
 ただ示している。己の在り方を謳っている。
 それだけなのに、対峙する者には、ひたすらに恐ろしいものとして君臨し。
 それを見上げる者には、ひたすら神々しいものとして映る。

「っていうか、どこまで膨らませる気なのよ……。おーい! イオン! 騎士どもはもうしっぽ巻いて逃げたわよー!」

 力を持つ者としての責務。
 たとえ望まぬ烙印だったとしても、それに意味を与えることはできる。
 暴れるのは簡単。壊すのも簡単。
 大きすぎる力は、けれど、強い気持ちがあればもっと他のことにも使える。

「それが、イオンの太陽…………あっ」

 私は服の襟に手を突っ込み、手にしたそれを服の外に取り出す。
 ぶらん、と垂れ下がった紐の先で、鈍い金色の環が静かに輝いていた。

「私も……同じ?」

 イオンは悠々と謳い続ける。
 振り向きもしないその背中に、私は小さく頷いて。
 そうして、騎士が逃げていった方向とは反対の道を見やり、再び、屋根伝いにその脚を踏み出していった。

「ちょ、ちょっと、ネル! ……もう、本当に、背中を見てばっかね、私は」

 *

「はぁ、はぁ、っ、はぁっ」

「アデル、肩を離せ、追っ手は俺がなんとかする!」

「だからっ、黙れっ! くそっ、くそっ……きゃぁっ!」

 脚がもつれ、転倒するアデル。
 アデルの肩を借りていた俺も、一緒になって地面に倒れ込む。

「くそっ……こんなことになるなら鍛えとけばよかった……っ!」

「アデル。行ってくれ。お前だけなら簡単に逃がしてやれる。さぁ、早く逃げろ!」

「ふざけないでっ! 勝手よ、そんなの……!」

「アデル! このままじゃ、二人とも――」

「そこまでだッ!」

 ざざっ、と地を齧る音が連続する。
 振り返った先、戦列を組み、武器を構えて立っていたのは。
 かつての、アデル班の面々だった。

「ゼン・モーゼリア、ならびにアデル・イルディレーテ! ……国家反逆罪の容疑により、貴様らを逮捕する!」

 若く険しい眼差しをした面々の中、踏み出した男の一人が語気を激して言う。
 その目はもう、俺たちをかつての上官などとは見ていない。
 ただ訳もわからず正義を執行して、そしてそれこそが騎士の本分だと信じて疑わない、青く、強く、澄んだ眼差し。

「任務には慣れたか」

「余計な口を聞くなッ! 手を挙げて、その場に腹ばいになれッ!」

「メシは食ってるか。先輩に絞られてるんだろ、もっと食わないともたないぜ」

「黙れと言っているッ!」

 今にも引鉄を引きそうなほど全身を力ませて、そいつは俺に銃口を向ける。
 まだサマにならないその大型拳銃を握りしめた両手は、グリップを何度も握り直して、尚も小刻みに震える。

「そんなに力んでたら、当たるものも当たらないぞ」

「だから喋るなと――ッ!?」

 すぅ、と俺は右手を挙げる。
 そうして、銃口を、そいつの頭に向けた。

「なッ、なっ……!!」

「お前が撃って、俺に中たるかはわからない。だが、俺が撃ったら、間違いなくお前に中たる」

「くっ……くそっ、くそぉぉっ!!」

 冷酷にしていた表情が、震えて崩れて、恐怖に慄く新兵の顔になる。
 人を撃つ意味。撃たれる意味。殺す意味。殺される意味。
 騎士として生きるために、見つめるか、もしくは死ぬまで目を逸らし続けなければならない命題。
 騎士である者、騎士であった者は皆、その無意識下で認識している。
 この世界は、そのどっちでもいられなかった者から死んでいくようになっているのだ――と。

「俺は、撃つぞ」

「おっ、おッッ、俺だってッ……!」

「お前が撃っても、俺は撃つ。わかるな」

「ひっ……言うな……撃つなッ、動くな……ッ!」

 全身をガタガタと震わせてそいつは呻く。
 もう腕も心も制御できてはいない。いつ引き金が引かれてもおかしくない。
 だから、俺は引く。
 誰かを護るために。誰かの背負う痛みを請け負える存在になるために。
 人を殺すための引鉄を、引く。

「ダメよ」

「なっ、」

 そう覚悟した指先が、惑う。
 アデルは、銃を構えて今にも撃とうとする、そんな俺の前に立ちはだかった。

「アデル、よすんだ」

「ダメ。撃ってはダメ」

「俺はこれを撃つためにここにいる……!」

「ダメ。そんな撃ち方をしてはダメ。ゼンは……その銃は、そういう風に使ってはダメでしょう。そうよね」

「……!」

 アデルは俺に背を向ける。
 すぅ、と息を吸い込む音が聞こえて。そして。

「……戻りなさい。あなたたちはまだ、私たちの前に立つべきじゃない」

「女がッ、わけのわからないことを……!」

「じゃあ。――このボクを相手にするってことの意味が、アナタにはちゃぁんと理解できてるかな?」

「ッッ……!!」

 アデルの気配が変わる。

「女。そう、女だ。ボクは大鐘堂の白い悪魔って呼ばれた女。ひ弱で、華奢で、大鐘堂の誰よりもI.P.D.を叩き潰してきた女」

「うっ……!?」

「アナタは銃を一発。じゃあ私は何発撃てる? どうかな、思い出してごらん?」

 それは、アデルが必死に狂気を飾り付けていた頃の仮面。
 だが、今をして、それはアデルにとっての苦痛の記憶に他ならない。
 不信、欺瞞、暴力と憎悪。かつて抱いてきたそれら負の情動を、アデルは少しずつでも乗り越え、克己し、払拭してきた。
 だから、今となってはもう、それを演じることさえ苦しいに決っている。
 鉄の棘だらけの仮面を再びその顔に嵌めようというのだ。今のアデルは、それを受け入れて平気な顔ができるほど、腐っても荒んでもいない。

「針のむしろ、ってあるよね? ああいうのにぐるぐるーって包まれてさ、手巻き寿司になるんだよ。そんな魔法も使えるようになったんだけど、体験してみたい?」

 俺が――。

「それとも、一気に押しつぶされる系のがいいかな? モグラたたきみたいなやつでさ、ぷちっ、ってなる感じの! 片付けカンタン、手間いらずのオススメレシピだよ!」

 俺が、そうさせているのか?

「ボクは悪魔だから、ぜーんぶ簡単なんだよ。キミたちをゴミみたいに扱うのも。もちろん、丁寧にヤッてほしいんなら聞いてあげるよ? どうする? ねぇねぇ、どうする?」

 俺が、アデルに苦しい思いをさせている?
 アデルが撃つなといったから。アデルがやめろと言ったから。
 それで、アデルに背負わせて。
 それで、俺はどうしてる?
 その小さな背中に隠されて。安全な場所で何もせず息をして。
 それが、俺がここまで来た理由なのか……?

「ねぇ、どっちかにしてよ。撃つのか、撃たないのか。じっとしてても何も変わんないんだよぉ。だったら、進むか逃げるか選ぶんだよッ!!」

「ちくしょう、ちくしょう……ッ!!」

 違う。
 俺はそんなことのためにここにいるんじゃない。
 俺はアデルの何になると誓った。
 盾だ。
 どんな痛みも、どんな苦しみも、たとえ護られる側がそれを望まなくても、退けて、背負う。
 アデルは傷つけさせない。
 それが盾としての務め。
 それが盾としての覚悟。
 たとえ、それで俺が誰かを殺めることになったとしても。
 俺は――俺は。

「退け」

「っ、ゼン! ダメ、ダメだってば! それを撃ったらあなたはっ!」

「それでも、俺は」

 お前のために、犠牲になりたい。
 それくらいでしか、俺は。
 俺は、お前にとっての唯一になれない――。

「ゼン――っ!!」

 そして俺は、人を撃つための引鉄に、力を籠めた。

 *

「ストップ」

「な……あ……」

 俺の引鉄は引かれなかった。
 引けなかったのだ。
 銃口を向けた俺に、少女が手の平を向けて立っていたから。

「あんまり、おねえちゃんを悲しませないで」

「わかっている、だから俺は!」

「だから、わかってないんだよ。独りよがりなのはさ、虚しいよ」

「い、イリヤ……!」

 瞬間、ざざっと一歩、騎士隊の連中が距離を詰めて叫ぶ。

「き、貴様っ、どこからっ!」

 がなる言葉に、少女はチッと舌打ちをして。

「うるさいよ、上だよ」

「ぐっ……!」

 そのたったの一声で、新兵たちは気圧され、進めた一歩を後ろに戻した。
 俺は驚愕の面持ちを隠せない。
 その少女は果たして、数日前に俺が見たその少女と同一の存在であったのか。

「ゼンは悦に浸りたいだけだよ」

「……どういう意味だ」

「言葉通りだよ。おねえちゃんのことなんて何も考えてない。やるのかやらないのかもはっきりしない。浮ついて、ふわふわしてる」

「なっ……」

「やだなぁ、おねえちゃんがこんなひとのこと好きになるなんて」

 少女の声が俺を詰る。
 突き刺さるのは言葉の棘だけではない。
 全身から滲み出る凄まじい威圧感。
 重厚で、厳格で、幾つもの戦場を渡った古兵がようやく醸し出せるかのようなそれはまるで。
 俺の前に立ちはだかる、巨大な壁のようだった。

「イリヤ、そのくらいにして……! ゼンが責められる理由はないよ……!」

「あるし、ゼンもそれをわかってる。でも、ゼンは気づいてから間違えようとした。だから幻滅したんだよ。おねえちゃんがかわいそう」

「どっ、どういうこと? わたし、別になんとも思ってないんだけど!」

「言わせた時点で負けだよね。ダメだねゼンは。あのおじさんも徒労に終わったね。不器用なりに頑張ってたのに」

「イリヤってばっ!」

 俺は情けなかった。
 少女の、イリヤの言わんとしていることは全部、俺の弱さを的確に批判していた。
 批判というよりも、単なる事実の羅列か。
 なぜなら俺は、先輩がスラムに来たその真意さえ、未だに測りかねているのだから――。

「貴様らっ、いい加減にしろッ! 我々大鐘堂騎士団を無視しようなど、」

「さっき、あなたたちの班長さんを投げてきた。もうすぐ撤退命令が出ると思うな、あの感じだと」

「投げっ……何を適当なことを……!」

 ピピッ、ガーガー。

『総員撤退しろ。以後の戦闘行為は認めない。繰り返す、撤退だ』

「班長! どうして……!」

『どうしてもこうしてもねェ。こちとらもとより正規の派兵じゃねェ。ハデにやったから上に知れたんだよ、隊長じきじきの訓戒くらい覚悟しとけよぉてめェらぁ』

「たっ、隊長のッ……!? クソッ…………ゼン・モーゼリア! アデル・イルディレーテ! この件は次回に預けておくッ!」

「怒られるのはイヤだよね。さっさと帰って謝ろう」

「くそっ……退くぞ! 撤退!」

「「「撤退!」」」

 新兵たちが、皆、悔しいような、安堵したような表情をして走り去ってゆく。
 残されたのは、俺と、アデルと、俺に冷たい表情を向けるイリヤ。

「ねぇ、ゼン」

「……なんだ」

「私、ガトルっておじさんを倒してきた」

「……本当なのか」

「リリも見てたから後で聞いてみて。で、ゼンは、そのおじさんにボコボコにされたんだね」

「……ああ」

「弱いね、ゼンは」

「……ああ」

 返す言葉もない。
 先輩を、この少女が倒したのか。
 あの、壁が動いているような重さをした、騎士隊の中でも五本の槍に数えられる先輩を。

「イリヤ、でも、ヒトの強さは戦う力だけじゃない」

「わかるよ。でも、戦う力もなくちゃアテにならない」

「ゼンは何度も私を助けてきた。だから助け返しただけ。私だって弱い私のままじゃない」

「でも、ゼンがこのままだと、おねえちゃんは幸せになれない」

「そ、そんなこと、」

「イリヤの言うとおりだ」

 アデルの反駁を嬉しいと思う自分が、ただただ情けなくて、悔しかった。
 だから、もう、俺は俺の弱さを見つめなければならない。
 こんな虚しい人間のままでいることには、耐えられなかった。

「イリヤの言うとおり、俺は……弱い」

 そう。全部、イリヤの言葉の通りだ。
 平穏な時間は有限で、少しずつ綻びを見せてくる。今日がその罅の一つ目なら、じゃあ二つ目はどうなる。
 今回は、先輩の私的な接近に端を発したものだ。
 なら、次回は誰が襲って来ようか。それを乗り越えた次は。その次の次は。

「今後、大鐘堂の本隊がやってこない理由はない。そうなれば、俺も……強くならなきゃいけない」

「ゼン……」

「すまない、イリヤ。ありがとう」

「感謝されるいわれはない」

「……そうだな」

「おーーーい! ネルー! アデルー!」

 遠くから声が聴こえる。
 イオンとリリ。それとレンとサニーが、二人して銀色の大きなケースを抱えてこちらへ歩いてくる。

「よいしょ、よいしょ!」

「おもーいっ! ううん、ぜんぜんおもくなーいっ!」

 そう。
 俺には強くなる必要がある。
 来たる敵から、その時こそアデルを護れるように。
 間違っても、大切なその人を失うことのないように。
 レンとサニーから重いジュラルミンケースを受け取り、俺は二人の頭を撫でた。
 俺なりに、強くなってみせる。
 そのために、俺が盾であるために選んだ、それは俺の、新しい矛。